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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

EU加盟候補国

 2005年03月16日 クロアチア
 
 今日EU外相会議は、明日から予定されていたクロアチアとのEU加盟交渉を無期延期することを発表した。旧ユーゴスラヴィア連邦から独立して14年が経つクロアチアは、早ければ2010年にEU加盟が見こまれていたのだが、怪しくなってきた。EU側は「クロアチアが国連のユーゴ戦犯法廷に協力的でない」ことを交渉中止の理由に挙げている。
 具体的には、セルビア人150人以上を虐殺した責任を問われ起訴されているアンテ・ゴトヴィナ元将軍の国連戦犯法廷への逮捕及び引渡しにクロアチアが協力していない、というものである。1992年から3年続いた内戦ではクロアチア領内のセルビア人武装勢力が国土の一部を占拠してセルビアとの統合を主張したが、クロアチアは1995年夏に国連の停戦ラインを突破して大反攻に出て国土をほぼ回復した経緯がある。逃亡潜伏中のゴトヴィナはその反攻作戦の司令官であり、クロアチアでは英雄とみなされている。
 EU新加盟国やEFTA諸国の歴史を書いてきたので、今日はクロアチアの歴史でも書いてみるか。

 クロアチアはここ数年、陸路で通過している。ドイツ人や日本人は国境ではほとんどノーチェックだが、係官や警官の態度が尊大なのでいいイメージは持っていない(まあブルガリアやセルビアのそれよりはましだったが)。車窓から見たその国土は平坦で森が多く、高速道路などのインフラは結構整っている印象がある。ドイツを中心とするEUがかなりの援助を行ったらしい。クロアチアの一人あたりGDPは4500ドルだが、これは旧ユーゴ諸国ではスロヴェニア(1万ドル)に次いで高い数値である。失業率は15%と高い。
 クロアチアは位置的には西がイタリア、東はセルビア・ボスニアになる。アドリア海に面しており、ヨーロッパ、特に旧共産圏ではその海岸は人気の保養地だった。中でも中世都市の面影を残すドブロヴニク(旧称ラグーサ)は有名だが、アニメ映画「魔女の宅急便」で主人公キキが下宿する街のモデルになったという説もある。
 またネクタイは本来クロアチアの風俗で、フランスのルイ14世に仕えたクロアチア傭兵の風俗が西欧で定着したものだという。フランス語でネクタイのことを「クラヴァット」というが、クロアチア人の自称は「フルヴァトHrvat」である。最近では1998年のサッカー・ワールドカップで3位に躍進、ダヴォール・シューケルが大会得点王に輝いたことも記憶に新しい。日本では「K-1のミルコ・クロコップの母国」と言ったほうが通じるかもしれない。

 面積5万6千平方キロ、九州のおよそ1.5倍の面積があるクロアチアの国土は、「く」の字のような不自然な形をしている。「く」の上半分にあたるのがスラヴォニア地方、下半分をダルマティア地方(ダルメシアン犬の原産地)というが、前者が僕も見たように平坦であるのに対して、海岸部のダルマティアは山がちである。この国土に450万人が暮らし、国民の9割はクロアチア人、5%がセルビア人、1%が「モスレム人」であるが、この三者は民族として扱われているものの、スラヴ語族に属するその言葉はほとんど差異が無い。彼らを分けるのは結局宗教でしかない。
 クロアチアとボスニアの国境はおおむね1699年にオスマン(トルコ)帝国とオーストリア王国の間で画定された国境に重なるが、要するに現クロアチア国境のほとんどは他国の支配下で定められたということである。ボスニアに多いモスレム人は、500年に及ぶオスマン帝国の支配下でイスラムに改宗したスラヴ系住民である。
 一方20世紀に激しく反目したクロアチアとセルビアの国境は、395年のローマ帝国東西分割の際に画定された国境と重なっている。ローマ皇帝テオドシウスは二人の息子に分割相続させるために帝国を東西に二分したのだが、この線より西側はのちにローマ教皇を戴くカトリック教会の影響下に入ってラテン文字の使用が続き、東側は東ローマ(ビザンツ)帝国の奉ずるギリシャ正教の影響を受け、9世紀以降キリル文字が使われるようになった。この地に居たスラヴ人はこの東西境界に影響され、クロアチア人とセルビア人という別々の民族としての道を歩むことになる。テオドシウスも、自分の遺言がまさか1600年後に深刻な民族紛争に繋がるとは思わなかっただろう。

 クロアチア人、セルビア人の祖先となったスラヴ族がバルカン半島に移住してくるのは6世紀頃のことだという。クロアチア人、セルビア人、スロヴェニア人などは南(ユーゴ)スラヴ人と総称される。640年にはクロアチア人がアヴァール族を撃退した記録がある。またクロアチア人はスラヴ族の中ではもっとも早い6世紀頃にキリスト教に接していたといい、ダルマティア地方はドブロヴニクのような良港に恵まれ、アドリア海の海上交通が発達していたことも関係するのだろう。
 925年、ダルマティア侯トミスラフは、マジャル人(今のハンガリー人の祖)の侵入を撃退してクロアチア王を名乗り、ローマ教皇にも認められた。これがクロアチア国家の始まりであるという。彼の死後クロアチアは衰退し、マジャル人の国ハンガリーと、アドリア海支配を目指すヴェネツィア、そしてビザンツ帝国による角逐の場となった。クロアチア諸侯はヴェネツィア派とハンガリー派に分かれて主導権争いを続けた。
 ギリシャ正教の本山であるビザンツ帝国の影響力を排除するため、925年のスプリット公会議で礼拝でのスラヴ語使用を禁止されたにも関わらず、1060年にクロアチアは公式にギリシャ正教からカトリックに転じた。1074年に即位したデメトリウス・ズヴォニミルはハンガリー王女と政略結婚してビザンツ帝国の脅威を排除し、ローマ教皇から公認されて権威を強化した。彼が1089年に暗殺されると、ハンガリーはクロアチア介入を本格化、ヴェネツィア派諸侯は排除され、1102年にハンガリー王とクロアチア貴族は協約を結び、ハンガリー王がクロアチア王を兼ねた。大幅な自治を認められたものの、こののち800年間、クロアチアはハンガリーの一部として扱われることになる。

 バルカン半島に進出したオスマン帝国は1526年のモハーチの戦いでハンガリーを破り、国王は戦死して王位は縁戚のオーストリア王ハプスブルク家に相続され、ハンガリー本土やダルマティアはオスマン帝国の支配下になった。17世紀末にオーストリアは反撃に転じ、1699年のカルロヴィッツ条約でクロアチア全土がオーストリアに割譲され、現在のクロアチア・ボスニア国境が画定された。オーストリアとハンガリーの二重支配下でクロアチアはドイツ文化圏に属することになった。クロアチアの首都ザグレブはドイツ語名ではアグラムという。
 フランス皇帝ナポレオンは1809年にオーストリアからダルマティアを割譲された。フランスの支配は4年しか続かなかったが、その革命思想はクロアチア人のナショナリズムを覚醒させた。支配者ハンガリーに反発したクロアチア議会は1847年にクロアチア語を公用語と決議する。翌年にハンガリーが宗主国のオーストリアに対して叛乱を起こすと、クロアチア人はオーストリアに付いてハンガリー鎮圧に加わった。1866年にオーストリアが普墺戦争に敗れると、国内宥和(アウスグライヒ)のため形式上ハンガリーの独立を認めてオーストリア・ハンガリー二重帝国となった。ハンガリーは1102年の協定を名目として「クロアチア人」の存在を認め、クロアチア自治政府の組織を許可した。
 一方オスマン帝国支配下にあったセルビア人は1817年に叛乱を起こして鎮圧され、以後クロアチアに移住するセルビア人が多かった。1878年のベルリン会議でセルビアは独立を認められ、またボスニアはオーストリアの勢力圏内に入った。ザグレブ司教だったクロアチア人ヨシプ・ストロスマイヤーはロシアの唱える汎スラヴ主義に共感し、セルビア人、クロアチア人など南スラヴ族の宗教宗派を超えた統合を目指す「ユーゴスラヴ」思想を提唱した。このユーゴスラヴ思想が広まってクロアチア自治政府の政権を取るに至り、スラヴ主義の高まりやセルビアの拡大志向に脅威を感じたハンガリー政府は、1912年にクロアチア自治政府の憲法を停止した。
 一方1908年にオーストリアがセルビア人の多いボスニアを正式併合したことは、セルビア人を刺激し、1914年のセルビア人青年によるオーストリア皇太子暗殺事件、第1次世界大戦へと繋がることになる。

 1918年10月にオーストリアが敗北すると、クロアチア議会はオーストリア・ハンガリーからの独立を宣言、勝者である連合国に属したセルビアに救援を求めた。同年12月、セルビア王アレクサンデル1世は「セルビア・クロアチア・スロヴェニア連合王国」の建国を宣言する。しかし中央集権・大セルビア主義を志向するセルビア人と、ユーゴスラヴ主義・分権志向のクロアチア人は建国当初から対立した。1929年にアレクサンデル国王は民族対立を解消するため国名を「ユーゴスラヴィア」に改称、国王独裁の強権政治を始めるが、クロアチア人抵抗組織ウスタシャの活動激化を招き、彼自身も1934年に外遊先のマルセイユでクロアチア人に暗殺された。
 1939年に勃発した第2次世界大戦では、ユーゴスラヴィアは当初ドイツ・イタリア枢軸に接近し、1941年には日独伊三国軍事同盟に加盟した。ところがその直後に親ソ派の軍部のクーデタが発生、ナチス・ドイツは即座にユーゴに侵攻し、10日あまりで制圧した。ドイツとイタリアはクロアチア人とセルビア人の対立を利用し、クロアチアに独立を認め、ボスニアを与えた。クロアチア傀儡政権を率いたのはウスタシャの指導者アンテ・パヴェリッチで、ウスタシャはセルビア人やユダヤ人、イスラム教徒、シンティ・ロマ(ジプシー)に対する苛酷な弾圧を行った。
 一方独伊に対する抵抗運動も活発化し、クロアチア人チトーことヨシプ・ブロズ率いる共産主義パルチザンが主導権を握り、ドイツの敗色が濃厚になった1944年9月にはソ連軍の到着以前にベオグラードを自力で解放した。チトー元帥率いる共産政府は1945年に王制を廃止、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の樹立を宣言し、クロアチアは再びユーゴスラヴィア内の一共和国となった。ユーゴスラヴィアは1948年にソ連の干渉からも脱して西側諸国の援助を受け入れ、独自の社会主義路線を歩み始める。
 しかしセルビア人とクロアチア人の対立感情が消えたわけではなかった。1971年、セルビア主導の中央集権に反対する学生ストライキやクロアチア人の民族主義運動が激化、翌年にはクロアチア人分離主義者による爆弾テロやハイジャックも相次いだ。1980年にカリスマだったチトーが死去、連邦は求心力を失って1988年には連邦内で大幅な自治を求めるスロヴェニア・クロアチアと中央集権を主張するセルビアが対立、分裂傾向が明白になった。

 1990年のクロアチア共和国選挙で、かつてのパルチザン将軍フラニョ・トゥジマン率いる民族主義政党が勝利する。1991年5月29日、国民投票の結果を受けてクロアチアはユーゴ連邦からの独立を宣言した。翌年トゥジマンが初代大統領に就任する。
 クロアチア国内のセルビア系住民はクロアチアからの分離独立を宣言、1992年には隣国ボスニアも巻きこんだ激しい内戦になり、セルビア人民兵がクロアチアの6分の1を占拠、世界遺産にもなっているドブロヴニクに砲撃を加える事態になった。ドイツに引きずられる形でEU(当時はEC)はクロアチアの独立を承認、クロアチアは体制を整えて1995年夏に反攻に出て国土をほぼ完全に制圧した。その年12月、旧ユーゴ内戦は終結した。クロアチアは翌年セルビアとの国交を回復している。
 トゥジマンは強権的・民族主義的な政治運営で国際的に孤立したが、在任中の1999年12月に死去した。スティエパン・メシッチ元首相が第2代大統領に就任し、EU加盟を目指す政策に転換、2003年にはセルビアの首都ベオグラードを訪問して互いに謝罪する共同宣言を行った。メシッチは今年1月に再選され、早期のEU加盟を目指している。



December 18, 2006
EU加盟候補国(マケドニア)

 
 「マケドニア」というと、西アジアへの大遠征(紀元前334~23年)を敢行したアレクサンドロス大王の故国がまず思い出される。その地域は概ね現代のギリシャ共和国の最北部にあたる。
 ところが地図を眺めてみると、現在もギリシャの北隣に「マケドニア」を名乗る小さな内陸国(面積2万5千平方キロ=関東地方とほぼ同じ、人口200万人=群馬県と同規模)があることに気付く。現代のマケドニアは1991年にユーゴスラヴィア連邦から独立した新しい国で、「マケドニア」を名乗る国家が出来たのはおよそ2000年ぶりのことだった。
 その歳月が物語るように、古代マケドニア人と現代「マケドニア人」は自称と居住地域が重なるだけで、直接の繋がりはない。現代マケドニア人の言語はスラヴ系のブルガリア語とほぼ同じであり、現に隣国ブルガリアは「ブルガリア語の一方言」であるマケドニア人を1999年まで独立した民族と認めなかった。
 現代マケドニア国家は歴史的呼称としての「マケドニア」と呼ばれる地域の4割程度を占めるに過ぎない。それを示すように、国連や日本政府が承認している正式名称は「マケドニア旧ユーゴスラヴィア共和国」という説明的なものになっている。

 アレクサンドロス大王はギリシャ人と思われがちだが、古代マケドニア人がギリシャ人に属するかどうかは当時から議論があった。現在の研究では古代マケドニア人も紀元前1200年頃に北方から移住したとされるギリシャ人の一派と考えられているが、古代の歴史家はフリュギア人・イリュリア人・トラキア人などからなる混成民族と記している。また古代ギリシャ人はマケドニア人を長らく同類と認めず、ギリシャ人のみに参加が許されていた古代オリンピックにマケドニア人が参加したのは紀元前5世紀後半である。
 それまでペルシア帝国の属国で異民族とみなされていたマケドニアは、文化人や芸術家を招いてギリシャ化し、フィリッポス2世のとき俄かに興隆した。フィリッポスは富国強兵を推進し、紀元前338年にアテネなどの都市国家連合を破り全ギリシャの盟主となったが、2年後に暗殺された。彼は北方遠征も行ったが、このとき彼の版図に入ったのは現代のマケドニア共和国のほんの一部であり、その他の地域はトラキア人やイリュリア人の居住地だったと思われる。
 その息子アレクサンドロス3世(大王)は、即位後まもなく北伐を行ってトラキア人を降し、後背を安定させた。彼は紀元前334年に東征に着手し、ペルシア帝国を滅ぼしてギリシャからインドに及ぶ大帝国を築いたが、紀元前323年に急死すると帝国は分裂した。マケドニアはアレクサンドロスの部将アンティゴノスの子孫が継承し、元の大きさに戻る。
 地中海で興隆するローマ帝国に対し、マケドニアは三度の戦争を戦ったがいずれも敗れ、紀元前148年には完全にローマ帝国に併合され、ここに古代マケドニア王国は消滅した。「マケドニア」は単なる地域名称となる。

 ローマ帝国が東西に分裂した際(395年)、マケドニアは東ローマ帝国の一部となった。キリスト教を国教とする東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれ、ラテン語ではなくギリシャ語を公用語とし、ギリシャ化が進む。一方で6世紀から7世紀にかけて東欧にスラヴ族が流入、マケドニアはスラヴ族最南端の居住地となった。これがスラヴ系である現代マケドニア人の直接の祖先となる。
 さらに9世紀になると修道士キュリロス兄弟がスラヴ族にキリスト教(ギリシャ正教)を伝道した。スラヴ族には彼が考案したグラゴール文字が伝わったが、13世紀までに後に考案され彼の名にちなむキリル文字に替わり、現代マケドニア語はキリル文字で表記される。主教座の置かれた美しい湖畔の町オフリドには10世紀に建てられたビザンツ様式の大聖堂が残っており、世界遺産に指定されている。
 東のブルガリア王国(第一次)は9世紀末にビザンツ帝国を破ってマケドニアを征服したが、11世紀初頭にマケドニアは再びビザンツ帝国に併合される。ヴァイキングや十字軍の攻撃でビザンツ帝国が衰退すると、ブルガリアが再びマケドニアを支配した(1230年)。
 この第二次ブルガリア王国も外敵の攻撃を受けて衰退、13世紀末にマケドニアは北のセルビア王国の支配下となった。ところが14世紀になると小アジアからトルコ人のオスマン帝国が侵入、1389年のコソヴォの戦いでセルビアは敗北し、マケドニアを含むバルカン半島全域がオスマン帝国の支配を受けることになった。
 イスラム教徒であるオスマン帝国の支配下では宗教的帰属に比べ民族出自は重視されなかったため、マケドニアの地にはキリスト教徒(ギリシャ正教)のスラヴ系・ギリシャ系住民、イスラム教徒のアルバニア人やトルコ人が混在するようになった。

 19世紀に入って西欧諸国やロシアが興隆し、東欧にも民族主義が広まると、オスマン帝国の領内ではトルコ・イスラム支配に対する抵抗運動が起きるようになった。まず1829年にヨーロッパ諸国の支援を受けたギリシャがオスマン帝国から独立し、さらにルーマニア、セルビアがこれに続く。
 ロシアはオスマン帝国支配下のスラヴ族・キリスト教徒解放(汎スラヴ主義)を掲げてオスマン帝国と戦争を続け、1878年の露土戦争で大勝した。その講和条約であるサン・ステファノ条約ではブルガリア独立が定められたが、その範囲はマケドニアをも含むものだった。かつてマケドニアはギリシャ正教のブルガリア総主教区に属していたため、ブルガリアの一部と見なされたのである。ところがバルカン半島でロシアの影響力が強くなりすぎることを嫌ったイギリスやドイツが介入、同年のベルリン会議の結果、マケドニアはブルガリアから切り離されてオスマン帝国の支配下に留められた。
 マケドニアにはスラヴ族を中心に多民族が混在していたが、ブルガリアがこのスラヴ族はブルガリア人であると主張し自国への帰属を主張したのに対し、同じスラヴ系であるセルビアが対抗、さらにギリシャもギリシャ系住民の存在や歴史的帰属を主張する。この3国はそれぞれマケドニアに自国の言語を教える学校を設立して自国との繋がりを強化しようと図った。1903年には親ブルガリアの民族主義者がオスマン帝国に対して反乱を起こし独立を宣言したが鎮圧された(イリンデンの乱)。
 1912年、ギリシャ、ブルガリア、セルビアは連合してオスマン帝国に戦争を仕掛けて大勝した(第一次バルカン戦争)。ところがオスマン帝国から奪った領土の山分けに際し、マケドニアの帰属を巡ってセルビアとブルガリアが対立し、翌年第二次バルカン戦争が起きる。ブルガリアは周辺諸国から袋叩きにあい、結局マケドニアはセルビア領となった。
 
 1914年に始まった第一次世界大戦では、セルビア・ギリシャが連合国(英仏露側)に属したのに対し、ブルガリアは同盟国(ドイツ側)に属した。ブルガリアはドイツ軍と共にセルビアに侵攻してマケドニア「奪還」に成功したが、1918年に戦争は同盟国の敗北に終わる。勝者に列したセルビアはマケドニア人など南スラヴ族を合わせてユーゴスラヴィア王国を樹立するが、その内部では民族対立が止まなかった。
 第二次世界大戦中の1941年、ナチス・ドイツはユーゴスラヴィアに侵攻して全土を占領したが、それに乗じたブルガリアは再びマケドニアに侵攻し併合する。しかしチトー率いる共産党パルチザンによりユーゴスラヴィアはドイツ軍の占領下から解放され(1944年)、戦後マケドニアはユーゴスラヴィア社会主義共和国連邦に属する一共和国となった。同時にマケドニアのスラヴ系住民は初めて「マケドニア人」という独立した民族として扱われる。
 しかしチトー大統領の死(1980年)や東西冷戦構造の崩壊は、戦後40年間抑えつけられていた民族主義の噴出を招いた。ユーゴでも共産党の一党独裁が崩壊し、主導的なセルビア人とその他の民族が対立、連邦内の各国は独立を宣言する。スロヴェニアやクロアチアに続いて1991年9月、マケドニアもユーゴからの独立を宣言した。
 周辺諸国はマケドニアの独立を歓迎しなかった。ブルガリアやセルビアにとっては元来自国の一部である。アルバニアはマケドニア国民の四分の一を占めるアルバ二ア系住民の扱いを憂慮した(むしろ自国との統合を望んだ)。そして特に強硬だったのが、EU(ヨーロッパ連合)加盟国でもあるギリシャである。
 ギリシャは「マケドニア」という国名にまず反対した。この新独立国の領域は古代マケドニア王国とほとんど重ならず、民族的にもスラヴ系で古代マケドニア人と関係がない。しかもこの名前はギリシャ北部の行政区域名でもあり、ギリシャ領に対する領土要求正当化に繋がる、というのがその言い分である。この国名問題は、マケドニアが「マケドニア旧ユーゴスラヴィア共和国」を暫定的に正式名称とすることで妥協を見た。
 ギリシャがさらに反対したのは、独立マケドニアが制定した新国旗である。その国旗は赤地の中央に「ヴェルギナの星」(太陽)を配したものだったが、この「ヴェルギナの星」は1978年にギリシャ領内で発掘された古代マケドニア王家の墓にあった紋章であり、既にギリシャ領マケドニア州の旗(こっちは青地)に使用されていた。ギリシャは強硬に抗議し、マケドニアが1995年にデザインを変更するまでの18ヶ月間、経済制裁を行った。

 外交問題が解決しても、国内問題が続く。隣国セルビアのコソヴォ自治州ではアルバ二ア系住民の分離独立要求を発端にNATO(北大西洋条約機構)を巻き込む紛争となり(1999年)、最大で25万人のアルバニア人難民がマケドニアに流入した。翌2000年、マケドニア国民の四分の一を占めるアルバ二ア系住民も、より大きい自治権を求め不穏になった。
 1993年以来展開していた国連紛争予防部隊は、安保理での中国の拒否権発動(台湾と国交樹立したマケドニアに対する報復)により1999年に撤収していたため、NATO軍が展開した。欧米の仲介で2001年に政府とアルバ二ア人政党の間でオフリド枠組み合意が締結され、事態は一応の収拾を見た。現在治安は安定している。
 独立直後に最大の貿易相手国・セルビアが旧ユーゴ内戦を理由に国連の経済制裁を受け、またギリシャから経済制裁を受けた事は、山がちの農業国(ワインが有名)で脆弱なマケドニア経済を直撃した。制裁解除後の1996年に経済成長はプラスに転じたが、一人当たりGDPは3000ドル弱と欧州で最低レベル、失業率は3割にも達する。2004年2月、大統領専用機が墜落してボリス・トライコフスキー大統領が死亡したが、その原因は財政悪化による整備不良だったといわれる。
 同年マケドニアはEU加盟申請を行ったが、「対テロ戦争」のさなか同国諜報機関がアメリカCIAと協力してレバノン系ドイツ人を不法に拘留した(しかも人違い)ことが問題視された。しかし2005年に正式に加盟候補国の地位を与えられ、交渉開始を待っている。

 この国は日本人に馴染みがないが、世界的著名人を生んでいる。
 インドで貧民救済に生涯を捧げてノーベル平和賞を受賞し、1997年に亡くなった修道女マザー・テレサである。1910年生まれの彼女の本名はアグネス・ゴンジャ・ボヤジュといい、オスマン帝国支配下にあったマケドニアの首都スコピエで、アルバニア系カトリック教徒の家庭に生まれた。
 マケドニア人とアルバニア人は彼女の民族出自を巡って論争しているが、18歳でマケドニアを離れインドに骨を埋めたマザー・テレサに、こうした争いは詮の無い事だろう。


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